はじまりは今

7歳と2歳の子供がいます。何もありませんが、あるものは全て出し切って子育てしています。持たない暮らし、持っていた暮らし、色んな視点から観察したわたしの生活を綴ります。

誰が与えた役割を演じているの?

先々週くらいに、
すごい夫婦喧嘩をしました。

 

私たち夫婦の
喧嘩の原因はほとんど、
私の溜め込んだ感情にあります。

 

 

沸々とした不満が溜まって
うまく消化出来ずにいると
突然爆発します。

 

自分が爆発するタイプだから
ガス抜きしないとなと思っていても、
爆発が起こるまで、
ガスが溜まっている事に気が付かないことが
ほとんどです。

 

 

 

 

夫婦喧嘩のテーマ

 

こないだの喧嘩も、
私のいきなりのガス大爆発から始まったのですが、
こーーんなに喧嘩ばっかして
どんな夫婦やねん、やっていけんのかいな、と思っていたら
ドラマで同じような夫婦喧嘩やってました。

 

あは、と思って観ました。
『あなたには帰る家がある』です。

 

そんで何日か後に、
テレビで『マディソン郡の橋』をやっていたので
観ていたら
メリル・ストリープが私の気持ちを代弁していました。

 

 

メリル・ストリープが言っていたことは、
大体ですがこんなことです。

女が結婚して、子供を生むと、そこから人生が始まり、同時に終わってしまう。
子供たちが独り立ちするまでお世話して、
巣立った後に自分の人生を歩こうとすると
その歩き方さえ忘れている。

 

 

 

本当に"役割"が不満なのか

 

2つの作品に共通することは、
"母親の役割"というテーマだと勝手に解釈していました。

 

私たち夫婦の喧嘩のテーマもいつもそこにスポットがあたります。
夫にそんなつもりはないと分かっていても、
そんな扱いを受けてなくても、
社会で生きていて、私の心に積もっていく不満は
"役割"を勝手に与えられること。

 

そして、
与えてるつもりはなくても、
私がすごく敏感にそれらしい空気を感じ取ってしまうのです。

 

センサーが異常反応しているのかもしれないし、
本当に世の中は、"母親"にめちゃくちゃ役割を与えているのかもしれません。

 

でも、
世の中が"母親の役割"を多く発信していたとしても、
私はそれにつぶれそうになりながら、
"母親"としてしか生きていないのか?
ふと思いました。

 

案外、自己表現する場もあるし、
不満があると夫に話すし、
"母親"やってるだけで、
メリル・ストリープのようになってしまうんじゃないかという
思い込みで勝手に不安を作り上げてるんじゃないの?
と、気付いたんです。 

 

 

何に対して、反応しているのか

 

本当の私は、
子供が巣立っていった後のことを予想もしていない訳じゃないし、
いつだって自分の自己実現のことを考えているし、
いつか私の町に素敵な救世主がやってくるなんてこれぽっちも期待していないし、
そもそも救世主を必要としていないし、
夫は私を"母親"としては扱っていません。

 

 

何を恐れているんでしょ。
世の中のメディアが作り上げた心がカラカラな専業主婦に
自分が母親なだけで、
なってしまうんじゃないかという事?
心がカラカラになったらいけないんじゃないかという事?

 

 
メリル・ストリープが言っているような事に、
傷をなめられたような気持ちになって
うっとりしてちゃいかんよ。


今をしっかり見てごらんよ。
メリル・ストリープのような主婦でもないんじゃない?

 

マディソン郡の橋』はやっぱり
愛がテーマの映画なんじゃない?

 

おわりに

 

マディソン郡の橋』は
今更ですが、素晴らしい映画です。
愛を描いています。

 


母親という役割を与えてくるのは、私にとって、夫ではなく
社会です
そして、それは、
受け取るか受け取らないか、選択する事が出来ます。


本当の私は、
"母親"という言葉は自分が都合のいい時にだけ利用し、
世の中が与える母親像に
自分が振り回されている事に気付いた時は非常にスカッとします。

 

要するに、
色々なタイプの母親がいる事をもうちゃんと知っています。

 

"母親"として生きると、ろくな事にならない、
という作り上げられた不安の母親像に
もう、振り回されたくないなぁと思います。

 

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